12月 30, 2024

鹿児島県Hさんの興味深い話『邯鄲の夢と仮想現実世界』

NONAKANobuyukiによる
鹿児島県Hさんの興味深い話『邯鄲の夢と仮想現実世界』

こんにちは、悟りの賢者NONAKAです。

本日は、数ヶ月前にあるお客様からいただいた興味深い話をブログにして紹介します。

鹿児島県 Hさんの話。

 ──これから書く話を、どうか最後まで読んでほしい。私は長年、ただの妄想と片付けてきた奇妙な体験を抱えながら生きてきた。世の中には、現実と夢の境界が曖昧な瞬間というものがある。たとえば長い昼寝のあと、目覚めてみて「あれ? ここはどこだ?」と呟いてしまうような、あの感覚だ。そして今、こうして筆を取ろうとしている私は、まるで夢うつつの住人でもあるような気がしてならない。実をいうと、この記事を読んでいるあなたも、似たような立場にあるのかもしれない。

 話の発端は、たまたま観に行った能の演目「邯鄲男」だった。ご存知だろうか? 能には、しばしば現実と幻想が溶けあうような不思議な構造を持つ演目が多い。「邯鄲男」は、その中でも特に儚(はかな)い人生観を突きつけてくる作品だ。あらすじはこうだ。

 盧生という男が、邯鄲という地を訪れ、一宿を得るために旅籠に泊まる。そこで宿の主人から「これで眠れば、望み通りの夢を見られる」という不思議な枕を貸してもらう。盧生は枕を受け取り、横になる。すると、たちまち夢の中へ引き込まれ、夢の中で盧生は一気に出世の道を進み、官位を得て、華やかな地位や財を手に入れる。妻を娶り、子どもたちにも恵まれ、栄耀栄華の限りを尽くす。そして、かりそめの絶頂に立ったかに見えたその瞬間、運命は一転する。紛争や災いが相次ぎ、盧生はすべてを失い、悲惨な最期を迎えてしまう。そのとき、ふいに盧生は目を覚ました。そう、実際にはほんの短い時間寝ただけなのだ。夢の栄光と破滅。すべてが幻であった。たった一夜の、あるいは一瞬の眠りが、長大な人生を見せたことになる。

 私はこの能を観たとき、体の芯に冷気が走るような不思議な感覚を覚えた。「今、自分が生きているこれは何だろう?」と。もしかして、私がこうして能を観ている“いま”すらも、長い長い夢の断片に過ぎないのではないか……。目覚めたら五分の一秒にも満たないほどの短さの幻だった、なんてこともあり得るのではないか。

 その夜から、私は奇妙な感覚に囚(とら)われるようになった。道を歩いていても、自分が何者かわからなくなる一瞬がある。部屋の壁を見つめていると、それが遠い絵のように思えることがある。家族や友人の顔を見ても、まるで他人のように思えるときがある。夢にしては生々しすぎるが、現実にしては脆(もろ)く霞んでいる。そんな中途半端な感覚に挟まれながら、私はずっと疑問を抱え続けている。

 あなたは今こうして、私の文章を読んでいる。しかし、この文章の一字一句が、まるで頭の中に流れこんでいる映像や声のように思えはしないだろうか。紙に印刷された文字を指でなぞっているわけでもなければ、人が朗読する声を聞いているわけでもない。ただ、あなたの脳が画面上の文字を「認識」し、そこから「意味」を構築しているのだ。ならば、もしも脳が“別の方法”で、この文字列を経験させることもできるのだとしたら? あなたはそれを本物の文章と区別できるだろうか。なにもモニターを必要とせず、脳内に直接“文字情報”が注がれているのだとしたら、どこまでが現実でどこからが幻なのか、見分けがつくとは思えない。

 アルツハイマー病になると、人によっては自分の氏名や、家族の顔、果ては自分自身が何者かさえわからなくなる。医療的には脳細胞の変性や記憶を司る部位の損傷が原因とされるが、当人にとっては「名前のない自分」が“現実”となる。周りの人から見れば「昔のAさんが記憶を失ってしまった」という状況だとしても、Aさん自身の頭の中ではそもそもAさんという人物が“他人”かもしれない。親が誰なのか、子どもがいつ生まれたのかもわからず、ただ見知らぬ誰かが自分を覗(のぞ)き込み、声をかけている――そんな世界を「現実」として生きているのだ。もしかすると、その人にとってはそれが夢であり、外側にいる私たちの世界こそが幻かもしれない。

 私たちが普段、五感を通じて認識しているという「現実」。視覚・聴覚・嗅覚・触覚・味覚……それらはすべて脳に情報を伝えるための入り口に過ぎない。そして情報をどう解釈して「意味」を与えるかは、脳の働き次第だ。つまり、五感が閉ざされれば「現実」にアクセスできなくなるかもしれないし、あるいは脳が自前の“夢”を生成し続けるのかもしれない。実際、厳しい修行を積んだ行者などが、五感を遮断して鮮明な幻覚を得るという話はよく聞く。もし私たちが何らかの奇病で五感を失ったら、暗闇に閉じ込められたように思えるかもしれない。しかし、その闇の中で、脳が勝手に世界を組み立て始める可能性を否定できるだろうか。森を歩くビジョンや鳥のさえずりを鮮明に感じ、緑の匂いや土の感触さえも再現するかもしれない。それはまさに、夢を見ているときの感覚そのものではないだろうか。

 では、今あなたが認識している家族、友人、仕事、人生は、本当に「現実」だろうか。あなたが自分の歴史として記憶しているものが、じつはあなた自身が脳内で創りあげた虚構だとしたら? 生まれ育った町、通っていた学校、働いていた会社、SNS上でつながっているたくさんの友人の存在……それらがすべて“あなたが紡(つむ)いだ夢”だとしたら、どう感じる? 証拠として残してあるアルバムや日記だって、あなたの脳が捏造している可能性はないと言い切れるだろうか。脳が一度「これが現実だ」と信じ込めば、そこに矛盾を感じないよう世界を補完していくからだ。

 ここで、ひとつ覚えておいてほしい言葉がある。能「邯鄲男」のように、夢の中で盧生は出世し、子どもを成し、華やかな人生を一瞬で経験した。そして、あっという間に破滅を迎え、目を覚ますと何もかも幻だった……。時間の流れさえ、夢の中ではいくらでも歪(ゆが)められる。じつに脆いものだ。だからこそ切なく、ある意味では美しいとさえ言える。けれど、その脆さに目を向けたとき、私たちは足元に底なしの不安を感じざるを得ない。

 私がこうして文章を書いている最中にも、「ここがいつか消えてしまうのでは?」という妙な恐怖がこみ上げてくる。朝起きるとたいてい夢の内容は忘れてしまうが、ごく稀(まれ)に目覚めたあとも息が荒いほど鮮明な悪夢を見ることがある。あれほどリアルに感じる夢が、いとも簡単に幻だったと片付けられてしまうのだ。逆に言えば、現実だと思っているいまの感覚も、脳の都合で容易に覆されるのではないか。そう考えると、私たちが信じている「現実」など風前の灯(ともしび)のように頼りない存在かもしれない。

 もしあなたが今、「こんな話、ただの思考実験だろう」と半ば笑い飛ばしているなら、それは脳が自らを守るために発動する防衛本能かもしれない。「すべて夢」という結論を受け入れてしまうと、自己同一性すらも危うくなる。だからこそ、私たちは「これは現実だ」と固く信じようとする。しかし、それが脳の仕組みであるならば、そもそも私たちが“自分”だと感じる主体こそが脳の作り出したドラマの主人公でしかないのではないか。真剣にそう考え出すと、足元が崩れていくようなめまいを覚えることがある。

 ここで、あなたにひとつ、奇妙な“実験”を提案したい。もしあなたが「自分の現実が本当にあるのか」を試したいなら、次のことをやってみてほしい。それは、「自分の目の中をじっと覗き込む」という実験だ。鏡を用意し、そこでただ自分の目を見つめ続ける。10分ほど、できるだけ瞬きをせず、その目の奥を見つめるのだ。おそらく、多くの人は途中で奇妙な感覚に襲われることになる。自分の顔が自分のものではないように感じたり、目がこちらを見返してくるような錯覚を覚えるかもしれない。あまり長く続けると鳥肌が立つほどの不気味さを感じることすらある。

 なぜ、こんなことが起きるのか。これは、あなたの脳が普段慣れ親しんでいる“自分という存在”のイメージに“エラー”が生じるからだ。とくに目というのは「意識の窓」とも呼ばれ、外部の情報を取り入れるだけでなく、内側から外へ意識が宿っているように感じさせる部分でもある。鏡に写った自分の目をただひたすら覗き込む行為は、まるで内部と外部の境界を破るような行為に近い。普段の生活では見ない“裏側”を見ようとするため、脳は認知上の混乱を起こすのだ。

 そして、これは他人の目であっても同じことが起こる。あなたの親、子ども、あるいはパートナーの目を、同じようにじっと10分間見つめ続けてほしい。そうすると、相手の顔全体がまるで他人事のように、あるいは別の人格をまとったように見えてくるはずだ。なぜなら、目はあやかしの現実の入り口のようなものだからである。その目をじっくり覗くということは、あなたが“知っているはずの相手”というプログラムにエラーを起こさせ、脳の中に描かれていた「これは○○さんだ」という認知的ラベルを強制的に再構築させる行為だ。結果として、「この人って、本当に自分の知っている○○さんなのだろうか……?」という不安が生まれる。まさに、“あやかしの入り口”をこじ開けているような感覚だ。

 こうした実験を経て、もしあなたが本当に混乱を覚えるなら、それこそが自分の“現実”が危うい構造の上に成り立っている証拠とも言える。まるで積み木のように、脳が記憶やイメージを積み上げて「これがあなたの世界ですよ」と提示しているに過ぎないのかもしれない。

 さて、今この瞬間、私の文章を読んでいるあなたは、もしかすると徐々に「これ、もしかしたら本当の話かもしれない」と怖くなってきているのではないだろうか。それとも、「いや、やっぱりこんな話、ただの与太(よた)話だろう」と笑い飛ばそうとしているだろうか。もし後者なら、それはある種の幸運かもしれない。なぜなら、その“不安感”を押し殺すことで、あなたの心が平常を保っていられるからだ。しかし、押し殺したところで、本当に不安感が消えるわけではない。一度かすかな歪(ゆが)みを見てしまえば、そこから染み込むように疑問の種が広がり続けるものだからだ。

 だが、私はあなたを必要以上に脅かそうとしているわけではない。むしろ、「もしもこの世界そのものが、あなた自身が見る長い夢だったとしたら?」という問いを突きつけたいだけなのだ。ちょうど能「邯鄲男」のように、人生の栄枯盛衰すらも一瞬の夢だった――そんな結末があるかもしれない、という想像をめぐらせてほしいのである。

 私たちは、時間を客観的な基準と信じている。時計が示す通りに刻一刻と現在から未来へ向かっていると。しかし、そんな時計の存在自体、脳の認知の上にしか成り立たない。寝ている間の夢では、数分のうたた寝で長大なストーリーを体験することがある。逆に、苦痛な時間は体感上、無限に感じられることすらある。脳の中で生じる“主観の時間”と、世間一般でいう“客観の時間”が一致する保証など、どこにもない。結局、私たちが「時間がある」「今がある」と思うのは、脳内に刻まれた認知の習慣に過ぎないのだ。

 同様に、痛みや喜び、悲しみといった感情も、脳の神経回路の発火によって生み出される電気信号の産物に過ぎない。それを「これこそ現実の体験だ」と言い切れるのだろうか。もし脳が「痛みを感じない」というプログラムで動いているならば、灼熱の火の中に手を入れても我慢できてしまう。身体は物理的にダメージを受けるが、痛みとして認識しない限り、脳的には「ない」のと同じだ。つまり、私たちが当たり前のように感じている肉体的感覚さえ、脳が決めたルールに従っているだけとも言えるだろう。

 こうしてみると、私たちが普段「現実だ」と感じているあらゆるものが、ひどくあやういバランスの上にあることがわかる。しかも、それを自覚した瞬間に、まるで積み木がドミノ倒しのように崩れ始める予感がする。「自分」とは何か? 「私の人生」とは何だったのか? 両親との思い出、仕事で積み上げた実績、 SNSに残る写真やコメント……それらすべてが“夢の結晶”に過ぎないかもしれない、という考えが頭をもたげる。

 もう一度だけ「邯鄲男」を思い出してほしい。盧生は枕の中で栄華を極めたが、それが一瞬の幻だったことを知り、ただ呆然(ぼうぜん)としたという。果たして私たちもいつか“目覚め”の瞬間を迎え、「ああ、あれはすべて儚い夢だった」と悟る日が来るのだろうか。あるいは、そのような“真の目覚め”は決して訪れず、このまま夢の中を漂い続けるのかもしれない。どちらにせよ、私たちは考え続けるしかない。そして、もし目が覚めたら、その長い長い夢の一部にすぎなかったこの世界を振り返り、「今まで何をしていたんだろう……?」と呟くのかもしれない。

 それでも、人は疑いながらも生きていく。なぜなら、たとえ夢の中だとしても、そこにはかすかな温かさや、音や香りがある。誰かと手をつないで感じる体温、笑い合う声、食事の味……。それらすべてがたとえ脳が見せる幻想だったとしても、私たちには大切な体験なのだ。人生がたった一瞬の枕の作用に過ぎないと知っていても、その一瞬を精いっぱい生きたいと思うのが、人間というものだろう。

 しかし、最後にもう一度、私はあなたに問いかけたい。「この世界は本当に現実なのか? もしも、あなたが長い夢を見ているだけなら? 時間も痛みも悲しみも、匂いや感情さえも、すべてあなたの脳が繰り出す概念に過ぎないのでは?」と。もし、そんな問いがあなたの胸のどこかに刺さり、抜けないまま残ってしまったとしたら、それはもう“目覚め”への序曲が始まっている証拠なのかもしれない。先ほど紹介した“鏡を見つめる実験”で、あなたの心の奥底に潜んでいた不安や疑念が、ふつふつと膨れ上がってくるかもしれない。自分の目を見つめたとき、そこに映っている顔が自分のものだという“確証”は、実はどこにも存在しないのだという事実に気づかされるかもしれない。そして、知人や家族の目を覗き込んだとき、あなたは「この人は本当に、私が知っているあの人なのか?」という疑念を抱くかもしれない。

 その違和感こそが、あなたが築いてきた「これは確かな現実だ」という思い込みに亀裂を走らせる。まるで、“あやかしの入り口”をこじ開けてしまったように。そこから先、あなたはこの世界をどう見つめ、どう疑い、どう受け入れるだろうか。答えはあなただけが知っているし、あるいはあなたの脳が都合のいいように再構築してしまうのかもしれない。

 ──なぜ私がこんな話を書こうと思ったか。それは、この世界を「疑いなく現実だ」と信じている人々に対して、「ちょっとよく考えてみてください。あなたが認識していることが、もしかすると間違いかもしれませんよ?」と問いかけたいからだ。「本当は、あなたは今、とても鮮明な長い夢を見ているだけなのかもしれません。さて、そろそろ現実の世界に目覚めませんか?」と。それが脅しであってほしいなら、そう思ってもかまわない。ただ、この問いがあなたの心の中に暗い影のように張り付き、少しずつあなたの認識を変容させていくなら、私の目的は十分に果たされたと言えるだろう。

 さあ、あなたはまだ私の文章を読み続けている。否定も肯定もすることなく、ただ読み進めてしまっているのかもしれない。否定したい気持ちと、妙に納得してしまう怖さが同時に存在している状態だろう。心のどこかで「やめてくれ、そんなこと言われたら不安になるじゃないか」と思っているかもしれないが、もう遅い。こうして最後まで読んでしまったのだから。

 夢と現実の曖昧さに気づいてしまうと、私たちはもう後戻りできない。まるで毒を舐(な)めてしまったように、認識の狂いは少しずつ広がっていく。だから、もしあなたが本気で“自分の世界”を守りたいなら、今回の実験はやらないほうがいいかもしれない。鏡に向かい、10分間じっと自分の目を覗くなんてやめておくべきだ。もしそれをやったら、戻れなくなってしまうかもしれないから。あなたの知っている“自分”や“家族”という存在が、まったく別の顔をしてこちらを見つめ返すかもしれない。そして、あなたの脳が積み上げてきた“日常”というプログラムに、致命的なエラーが発生し始めるかもしれないのだ。

 けれど、もしあなたがどうしても真相を確かめたいなら、ぜひ試してみてほしい。一度その入り口に足を踏み入れてしまえば、見えてくる景色はがらりと変わるだろう。そのとき、あなたの人生観や自我のイメージは大きく変わるはずだ。どう変わるのか、私にはわからない。けれど、それがひょっとすると“本当の目覚め”への道なのかもしれないし、あるいはさらに深い夢の層に沈んでいくキッカケなのかもしれない。

 「邯鄲男」のように、まるで華やかなドラマの幕が一瞬で開き、一瞬で閉じる。夢の栄光と破滅。そんなに短い時間の中に人生のすべてが詰まっていたとは、目覚めるまで誰も気づかない。私たちの現実もまた同じかもしれない。いつかはっと目を覚ましたとき、この長大な日々の営みがほんの数秒にも満たない夢だったと知り、呆然とする自分がいるかもしれない。

 ……それでも私たちは生きていく。夢と知りながら、この世界を愛するのだ。それが人間の性(さが)。だが、このブログを読み終わった今、あなたの中にはなんとも後味の悪い感覚が残っているはずだ。「本物の現実など、そもそも存在するのか?」という薄ら寒い思いが、背中からじわじわと染み込んでいくかもしれない。自分の名前、住所、家族、仕事――本当に“あなた”が所有しているものなのだろうか? それとも脳という名の舞台装置が見せる、一夜の幻影に過ぎないのだろうか?

 いずれにしても、あなたがこれからどんな行動を選び、どんな感情を抱くかすら、脳が作り出したシナリオに沿っているのかもしれない。そう、あなたがこの文章を「夢物語」と思うのか、「真実の一端」と捉えるのか、そのどちらを選ぶのもすでに決められた宿命のようなものかもしれない。それがわかる日はいつか来るのだろうか。……いや、本当にそんな日は来るのかどうかすら、定かではない。

 ──では、これを区切りに、いったん筆を置くことにしよう。私が書き記したと思っていたこの文章ですら、実はあなたが見る夢のひとコマだった可能性を否定できない。あなたの脳が私という“書き手”を創り出し、好き勝手な言葉を語らせているだけ、というシナリオもあり得るのだ。そんな、何とも言えない悪夢じみた余韻を残したまま、私は去ることにする。鏡に映るあなたの目の中で、すでにほんの小さなエラーが起き始めているかもしれない。そしてその歪みが大きくなるにつれ、あなたの世界はゆっくり、しかし確実に揺らぎ出すはずだ。

 ──もし今、この文章を読み終えて、「いや、そんなわけないだろう」と立ち上がろうとするなら、心して行動してほしい。あなたが踏み出す一歩、その床の感触すら“夢”かもしれないのだから。どうか、あなたの「現実」が、ほんの少しでも良い夢でありますように。そして、いつか本当に目覚めるべきときが来たなら――そのときは、どんな世界が待っているのか、ほんの少しだけ期待してみてもいいのではないだろうか。

Hさんの話はここまでですが、この内容を受け取った後、Hさんと連絡が取れなくなってしまいました。メールを送信してもエラーで返ってきてしまいますし、スマホからショートメッセージを送っても送信できません。ヒーリングのご依頼時に書いてあった住所は、実際には存在していない住所でした。

今となってはHさんが本当に存在する人物なのかどうかさえも分かりませんし、もしかするとHさんと言う人物自体が私の想像なのかもしれません。いえ、もしかすると、このHさんに関する話自体があなたの創造物なのかもしれません。

あなたは、この現実世界をどのように捉えていますか?

悟りの賢者
Nobuyuki NONAKA